生きた金魚をトイレに流さないで……。巨大金魚の写真が訴える、トイレの先で起きること

ペットの行方、いらなくなったペットは今?

生きた金魚をトイレに流さないで……。巨大金魚の写真が訴える、トイレの先で起きること

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190625-00010011-huffpost-int

アメリカのニューヨークから驚きの写真が公開されました。その写真は金魚。金魚なんて驚きでも何でもない被写体なのですが、この金魚はそのサイズに驚きます。さらに驚くのはこの金魚の人生。いやいや魚生とでもいうのでしょうか。ペットとして飼われていた金魚が、なんらかの理由でトイレに流される。流されたトイレの先でおこるできごとで、この金魚は生き延び、そこで成長し続けてきたというのです。

金魚にとって、この事実はどのように感じるのでしょうか。魚になったことはないのですが、これを人に置きかえて考えてみたいと思います。

幸せなペット時代

なんらかの理由で出会った飼い主。私に対してかわいらしいなんて理由で環境を整えてくれます。栄養価の高い食事を食べさせてくれる。危険性のない環境で私を大切に育ててくれます。天敵のいない状況の中、のんびりとゆったりと生きることができる生活を送っています。自然界では弱肉強食の中、日々、食べるものを探し敵から身を隠す。命がけの生活を送っているというのが現実。それと比較するとこんなに恵まれた環境はありません。でも私もその環境に慣れきってしまうのが現実なのです。

こんなに幸せな生活、慣れてしまうとこれが当たり前になってしまい感謝などの気持ちも持たなくなっていきます。これは私にも問題はあるのでしょうが、飼い主が強制的にそのような環境を常識にしてしまったという理由もあるでしょう。

生活は変化する

飼い主の私に対する愛情はどんどん強くなっていくのですが、いずれ居て当たり前の存在になってきます。すると環境への気遣いなどが減ってきます。それどころが、ほかの新たな存在へ気持ちが移り変わってしまうこともあるでしょう。

飼い主はかつて愛情を傾けた存在である私に対して、その命を奪うことはできません。

せめてもの償いとして、私が苦しまないで済む、いや、苦しめることなく自分のそばから離れさせるという行動にはしることもあるでしょう。

私が私らしく生きられるために、生きてきた環境に近い場所へ追いやる。

そこは生きられる場所ではない可能性が高いところですが、飼い主としてはできる限りのことはやったという罪悪感からの逃避があるのではないでしょうか。可能性として少ないのですが、その先がより快適な場所であったとしたら。

私は捨てられ、生命を失う危険にさらされたのです。それでも得られた環境。怒りと恨みを持ち続ける中、敵のいない環境であったとしたら・・・。

貪欲に生きることになるでしょう。

ペットを捨てるということ

人間に置き換えてこの状況を考えてみました。ペット側の立場がどのようなものなのかということを考えてもらえると嬉しいです。外来種による生態環境への問題もあるのでしょう。その問題に加え、生き物に対する愛情が、自分の便宜のために変わってしまう人間の感性に対する問題も大きいような気がします。

生態環境とともに、愛情とは何かを今一度しっかりと考える必要があると感じます。

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